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生二
神社のこと2022年06月15日 

不健康でギリギリな生命力、この世の理に反した異常体質、
基本わがままだったり悪意の塊の悪霊、
悲しい浮遊霊や妖怪に憑かれすぎて、
それを何よりの栄養にしてる生二くん。
神社やお寺、パワースポットとかの聖域が大の苦手。お祓いも浄化アイテムも嫌い。
ネガ要素に浸かりまくった状態。ネガでネガを呼び寄せる。
たまにそんな生二くんみたいな状態になる0(:3 )〜 _(‘、3」 ∠ )_

・・・
※長い記事です

ときどき自分が「とても穢れている存在」みたいに思っちゃう時がある。
錯覚だけど0(:3 )〜 _(‘、3」 ∠ )_

要はなんかネガティブ思考の時にそうなってしまう。
体調が悪い自分、わがままさを出した自分、
怒りなどの邪悪な思考を持った瞬間、自分が罪人だと思う事、
「陽」状態である事が絶対的にえらいという思考。
正論的に「わるいもの」に事に対して潔癖すぎること。

0か1かみたいな、極端思考だとまじ苦しい。
そんで、その自分が汚れてる認識状態だと、「神社」っていう場所がすっごい辛い自分がいるのが分かった。
だってこの状態、基本自分への感謝もできてないし、相手にも攻撃的思考を持って感謝がない。
神社的にはお呼びじゃないんですよね。
神社の参拝は感謝が基本。
というより、自分自身が拒否感を感じるだけというか。神社側は基本誰でもウェルカムな気がしています。

こころって本当に面白い。
そして同時に、神社って日本人の精神そのものだと思った。

・・・

最近夢に神社や信仰モチーフが出てくるって書いたんだけど、
そういう夢に「恐れ」の感情を抱いてしまって、
なんかそこを考えると、なんとなく違和感や不快感が出て来て、そのせいで夢を見た事に対して不安な気持ちが出ていた。

結局その後の夢には少年をたくさん出してくれて、
怖がらなくていいよー(´・ω・`)って夢に慰められてしまったんだけど、
やっぱりそれらへの恐れを、起きてる時の自分はどう考えるのか整理してみた。

あんまり宗教的な事は書かない、と言ったけど、ちょっとだけ語る。
不快感があったらすみません。
ざっくり印象を話してるので、なんか間違ってた場合もすみません。

・・・

私はどっちかというと不信心もので、無宗教者に近いかもしれない。
何が起こっても自分の責任だし、助けてくれる人もいないって考えだった。今は違いますが!
(尊敬するアニメキャラとかをこころの支えにしてたから、オタク的信仰心はすごい自信はあるけど)

家のことを考えると子供の頃からあった宗教的作法等は習っていたけれど、まぁ両親もそんなに熱心じゃなくて、強制はしてこなかった。
私はこれには感謝してる。
おかげで「自分」というものを持てたと思うから。
私の代で、もう熱心な信心はなくなっちゃうだろう。
(申し訳ないけど)

とはいっても、全く信じてないわけじゃない。
宗教の教え自体はとても良いものだと思ったし、
自分の努力や周りへの感謝をベースにするのは人間として大事な事だし。
だから宗教自体には嫌悪感はない。
嫌なのは生き方の隅々まで強制してくる行為であって、宗教そのものは良いものだと思ってる。

・・・

詳しい事は省くけども、まぁいろいろあって、神社にもあんまり縁がなかった。
ちょくちょく行くことはあったけれど。
今でこそ、オカルト面白くて全体的に好きだけど、
別に霊感もないし、何するにも自分が努力するしかないし、
なんかそういう「目に見えないもの」を信じる事が本当にできなくて、
神様ってのはファンタジーで、お参りとか無意味やろ、って長い間正直思ってました。
(ほんとごめんなさい)

まぁでも実際なくても何とかなってたから、
信じる信じないはマジで自由だとは思う。
でもその時期は本当に自分の行動結果しか信じてなくて、いろいろ事情があったにせよ、かなり自己中で貧しいこころだったなとも思う。
あと、メンタル的には常に自虐的で、
最低でもするべき「自分への感謝」という、夢分析の考え方にも通ずる心構えができていなかった。

・・・

神社に対する考えが変わったきっかけとしては、
友達とよく神社に行くようになってから、
世間はもっとカジュアルに神社に行ってる、という事実を感じ始めてからだった。
それまで一人で神社に行くきっかけがなかったけれど、
誰かと神社に行く機会がどんどん増えて・・・
神社と社会の繋がりとか、願掛けの意味とか、自分が教わった宗教の教えと何ら根本は変わりなかった。

なんか「神社の作法って気が引き締まっていいな」と
神社へ行く度に思うようになる。
反面、今まで馴染みがなかったせいで無駄に力んで、
「神様がいる場所」という考えが常に過るようになったし、
「夢」とか「カード占い」とか直感・偶然・運命的世界を
信じるようになっていたので、
すごく「目に見えないもの」に対する敬意と畏怖の念が出て来て、緊張するようになった。

・・・

このごろ事情で神社に行く機会が増えていて、余計に意識する場面が増えていた。
緊張して疲れていることもあったし、苦手意識が少し出てたかもしれない。
だって、今まで自分に馴染みがなかったものだもの。

夢に出るのも当然。
「神様が見ている」「神聖な場所にいる」「正しくなければ」という考えが過って、
自分の無駄に高いストイックさとバカ正直さが悪い影響になって、
明らかに力んでる証拠だったのかなぁと。
(平安時代の本来の信仰参拝なら良かった性格かもしれないけど!)

神社を固いコンクリートで見えないよう囲い、
鍵をかけて中に入れなくなっている夢を見たけど、
これって私自身が神社に対して取っていた態度そのものの様子で、
「目に見えないものを怖がってる・わからない怖さ」を表していたのかなと思う。

少年が教祖をやめて「自分」に戻る夢も、
もっとカジュアルに、っていうメッセージかもしれないし。

「目に見えない神様」に捉われるのは、
信仰対象がはっきり決まっている「偶像崇拝」となってしまうし、
それは私が昔嫌がっていて理解できなかったものでもある。
大事なのは「自分が大事だと思うこころ構え」であって、偶像崇拝の対象を信仰することではない。(と個人的には思ってる)

・・・

「偶像崇拝」が悪いとは思わない。
キャラクターとしてみれば分かりやすいし、親しみやすい。
この面は神道の神様方は、
修行的な側面がある仏教よりもカジュアルな印象で、難しい教えとかもない。
とても面白いと思うし、カジュアルだから庶民に浸透してるのだと思う。

私はそのカジュアルさに驚いていたし、
なんで今まで知ろうとしなかったんだろうと後悔の念が最近すごい。
もちろんカジュアルとはいっても、神域に入って挨拶をしに行くのだから、礼儀はないといけない。
でも礼儀とかって、人間として基本的に大事な事ですから、
もうこれが宗教とかあれこれ関係なく、「人として大事な文化」だと思ったんですよね。
願い事も、わざわざ願掛けをしにいくっていう行動をするわけですし、
自分自身に「願い事を持つ」って、多少は「わがままさ」がないとできないことです。
神社への参拝は「自分を大切」にしなければ、まず土台が成り立たないなと思ったのです。

・・・

ところが困った事に、自分が基本ネガティブなので
未だに自虐的になったり極端に自信がなかったりします。
信仰もなにもなかった自分ごときが神社に行っていいものだろうか、とか、
調べもせず行ってしまったりして神様に大変失礼なことしたかもしれない、
罰が合っても仕方ない、とか、
とにかくまだこう思う時がある。

でもこれって、神様側からしても、
こんな気持ちで来られても痛々しいから辛いですよね。
これ人間同士でもそうなんですけれど、
自分を大事にできないって、相手も傷つける事に繋がりがちです。
だから、極端なネガりは本当に良くないのです・・・

こんなだから、神社に行く度に、
こころが汚れた自分が行くことで辛くなる感覚があった。
自分はここにいてはダメとか、恥ずかしいとか、わけもなく怖いとか。
でもなんかこれ、
「聖域に足を踏み入れて辛くてこわい」とか思うのは、
ファンタジー的なものにしたって、悪霊にでも憑りつかれてるのか?って思うシチュエーションじゃないですか?
ネガ思考ってまさにそうだなぁと。
本当の自分ではない、まやかしのこころ。

神社って基本聖域で、人がたくさん行き交う明るいイメージがあります。
そんな激マブなとこに暗い自分が行けば、
こころの影が色濃くなるのは当然です。アウェイで苦しいにきまってる。

それと同時に、思考のクセってのはなかなか変えられないし、
まぁそう思ってしまうのも「自分」として、
自分は自分のペースで神社とお付き合いすればよい、と最近は思えてきた。
とりあえず「神社がちょっと怖い自分」を抱えることにして、しばらく過ごしていた。
これも自己愛のひとつだし、
まぁこう思えたおかげで、とりあえずは何度も神社に行くことができていた。
自分にできる範囲で、苦しくならない程度に、挨拶と感謝だけはしっかり意識して。

・・・

神社へ行く回数が増えて来て、一緒に行く人のカジュアル思考に影響される。

実はつい最近機会があって、京都の有名神社2社に行ってきたんだけど、
なんかその時にふしぎな偶然が何回もあって、あぁほんとに神様っておるかもしれんって楽しくなりました。
怖いものじゃなくて、楽しい神様として。

大雨予報だったのに、参拝時間だけは傘もいらないくらいの小雨に抑えられ
(出発時や参拝終了後はめちゃ降ってた)
いつもは後ろに待ってる人が多いのに、
その日は人がいなくなってゆっくり参拝できて。

そのあと境内でネコチャンがトコトコ出て来て、
通り過ぎるだけかと思ったら道のわきで座って見つめられて和んだし、
境内の花の開花時期でめちゃくちゃいい香りで幸せになったり。
ちょうどお神楽を行っていたり・・・

ただの偶然、思い込みだとは思うけど、こんだけ気持ちを前向きにさせてくれるくらいの出来事が起こると、やっぱりなんか嬉しくなるものです。
自分が怖がってる部分を和らげてくれるような感じを受けて、なんか感動しちゃって。
この出来事でだいぶ警戒心がなくなったというか、
なんかもう神道って、ほんとカジュアルに庶民派な文化なんだなぁと思いました。

・・・

夢占いの歴史を勉強していると、避けては通れない神道の考え方。
江戸時代くらいからの夢占いの内容見てても、
みんな神道的には縁起の良いものを都合よく喜んで楽しむ、
カジュアルな印象を持ってるのが分かりますし、日本人の素朴でささやかな幸せ文化を担ってきた素敵なものだと思います。

余談だけど、数年前に「一人で神社に行ってみるぞ!!!」と
勇気を出して冒険的テンションで行った貴船神社での願掛け。
実はもう叶ったので、本当は御礼参りに行きたいけど、なかなかあそこは遠くて行けないね0(:3 )〜 _(‘、3」 ∠ )_
こういう、感謝の無限ループみたいな状態になれる神社の参拝・願掛け文化って素敵だなと思いました。
やっぱ日本人なら神社に行く文化に慣れないともったいない気がする。

・・・

ちなみに寺はどうなのって話だけど、お寺はそんなに構えないです。
どちらかというとなんか、寺ってしんみりしてる方じゃないですか?
テンションが自分の地の性格と合ってると思います。
仏教とか寺って、因果応報、欲望に対する修行、
人の苦しみの浄化や救済・死後の世界を考えてる感じなので、
なんか勝手にネガティブから入ってるな~と思うのです。(偏見)

神道・神社って、神様の愉快な世界!みたいなテンションで(現代のパっと見は)、
七福神とかのビジュアルからも分かるとおり、めっちゃポジティブじゃないっすか?
基本「運がいい!幸せになるよ!」ってテンションで。
もちろんそんなじゃない神様もいるけれど、けっこうみんなわがままに願掛けしてるじゃないですか0(:3 )〜 _(‘、3」 ∠ )_
ネガり方によっては、そもそも願掛けでわがままになれないんで・・・

心機一転、穢れを落とす、願掛けとそのご利益、繁栄、
世界の成り立ち、自然に対する感謝等、光の世界を考えてるイメージです。

もともとは神様たちに感謝し鎮め、自然とうまくやろうとする為のものですが、
それにしたって個人の幸せというよりは、次元の違うもっとスケールの大きな事を目的として誕生しています。
これは何も信じられない状態のネガティブにはまぶしいわな・・・苦笑